普光寺の山門 (仁王門)

山門 (仁王門)

参道から見上げると、中央に吉祥山の山号を掲額した山門が見えます。この山門は、 今から約170年前の天保二年(1831年)、当所の関市四郎氏の造営寄進された建物で あります。関市四郎氏(屋号若松屋)は酒造業も営むほか、諸国物産の流通も手掛け、 江戸はもちろん遠く大阪とも交易があり、大きな富を築いたと言われております。 棟梁は六日町の宮大工内藤藤蔵でした。内藤家の先祖は越前の生まれで、慶長三年(1598年)、 越前北の庄から坂戸城主として移封された堀直寄に従い魚沼こ移り、坂戸城の建築に従 事した宮大工であったそうです。

内藤棟梁は、山門新築を命ぜられると、日光に行き、日暮らしの門と言われる陽明門 をつぶさに調査してこの山門の姿図を作り工事に着手したと言われており、総けやき、 豪雪にも耐え、耐震性もある建物となっています。建築には十年余の歳月と一万五千余 の人力を要したと記録されています。また若松屋さんは、永代修繕料として、金百両、 田五反四畝余を合わせて寄進しております。

双龍図板絵 (谷 文晁 作)

山門の楼下天井の双龍図板絵は、関市四郎氏が親交のあった仏画師「板谷桂舟」に 筆労を依頼せんと、当町井口新左衛門をして天井板を江戸まで運ばせる途中、熊谷宿 に宿泊。たまたま同宿せる谷文晁師これを聞き、自ら筆を取りたき気持ちをおこし、 新左衛門にその由を訴えたるも、新左衛門未だ文晁師を知らず、これを聞き入れざりし が、文晁師の願いしきりになるにより遂にこれを許したりと。以来約170年、 風雪・乾湿に耐えてきた「八方ニラミの龍」と言われるこの板絵も、 30年程前から殆ど墨線が識別できず、龍の存在すら確認されない状況となり昔を知る 方々からは修復の声が高まっておりました。そのため、平成九年一月、日本画象 永森一郎氏よりお取組頂き、板絵が復活いたしました。

毘沙門天二十八使者像

毘沙門天二十八使者像

山門二階には東方に向かい、金箔の段々を背に、毘沙門天二十八使者像と賢空和尚・ 内藤棟梁の像が奉安されております。作者ば京屋政五郎・六右エ門満昭の共作で、天保二年より天保七年の間に作られたものと言われております。

格天井:天女の舞・板壁画

格天井:天女の舞・板壁画

二階天井には、天女の美しく舞う姿が二十三枚の絵に見ることが出来ます。また周り の板壁画は「釈迦出山の図」と「十六羅漢修業の図8枚」が飾られております。これら の絵は、当時の仏画師を代表する「坂谷桂舟」の傑作といわれており、極彩色に描かれ ております。二階は常時蔀(しとみ)を下ろしており、画かれた当時そのままに保存 されております。