普光寺のご案内

普光寺のご案内

普光寺の縁起

承久三年(1221年)、鎌倉幕府(将軍源実朝)が、地頭平繁基をして毘沙門堂に堂領 を献ずるとともに、僧道乗坊辯覚を天王堂(毘沙門堂)別当に任じ、浦佐川西地区に境 を定め「永代殺生禁断」の令を下した。僧道乗坊辯覚はこの令を広めるため、また寺務執 行のため、この地に大伽藍を建てたのが「普光寺」の創始と言われております。

慶長年間火災により普光寺が焼失したため、約70年間にわたり本格的な寺院建築の寺 が無いまま経過してきたが、二十世賢弘和尚が延宝八年(1680年)四月「天下泰平・国 王長久・風雨順時・万民与楽」めため、檀信徒の協力を得て再建したのが現在の普光寺 であります。明暦三年(1657年)、徳川幕府は世間の風潮を憂い「嗜侈禁止令」を下した。 この令に影響されたものか、普光寺の柱材等にその面影を見ることができます。

以降約300年余、檀信徒のよりどころ、集いの場所、また毎年の毘沙門裸押合い大祭 の大祭本部及び講中宿泊場所として使われてきたところです。

しかし萱葦屋根であった寺も、時代の流れの中では、屋根修葦も材料・職人等の確保 が難しくなったため、昭和44年8月、檀家の理解・協力のもと萱葦の上に亜丹で覆い、 冬期間雪は自然落下になる様にしました。

昭和58~59年、全国5ケ所で厳修された弘法大師1150年御遠忌が、昭和59年 10月総本山長谷寺化主「勝又俊教倪下」をお迎えし、越後・佐渡・信濃一円の豊山 派道場として当普光寺において盛大に厳修されました。

普光寺

戊辰戦争

慶応四年四月、戊辰戦争の戦火が魚沼の地にも及び、隣町小出町において「小出島の 戦い」が勃発しました。普光寺には西軍の先鋒隊本営が置かれたほか、病院にもなった ようです。戦いで負傷・戦死した方々が運び込まれましたが、薩摩藩8名、長州藩8名 が亡くなられ、寺の西山に墓地を造り埋葬、今も「招魂社」として祀っています。 普光寺上段の間には、薩摩藩・長州藩の家紋をつけた位牌に、戦死された16名の俗名 を記した位牌と奇兵隊小隊司令元森熊次郎・報国隊大本昇両氏の遺品である陣笠 が保存されています。また慶応四年七月、小千谷民政局から、浦佐の人達が献身的に負 傷者の看病をしたと言う事で褒賞を受けています。

不動明王

当山の不動明王は、石像仏としては日本最大といわれており、明治初年に六日町の石工富八郎 により作られた。うがい鉢は当地大崎の方谷山(ぼたんやま)産出の大石で作られ、乾季の魚野川の 浅瀬を利用して渡り、現在地に運ばれた。運搬用具には、大橇と女性の毛髪を編んだ毛綱が用いられた。

不動明王

普光寺の所在地地図

住所:〒949-7302 新潟県南魚沼市浦佐2495番地甲